3月も中旬になると桜が気になってきます。どうして桜が気になるのでしょう。
昔は、たまたま満開の桜の下を通りかかって「きれい」とは思っても、わざわざ見に行こうとまではなりませんでしたが、最近、春になると、なんだか花を見に行きたいと感じるようになりました。
日本人は桜が好きだと言います。
一瞬で咲いてあっという間に散っていく潔さに「無常」を感じるのか、
一面の桃色が暗い闇夜に広がるあの妖艶さに魅かれるのか、
年度の変わり目に咲いて散る桜吹雪に、卒業式や入学式、異動や転勤など様々な出会いと別れの思い出を呼び起こされるのか、
言うならば、在原業平の
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
の気分です。
さて、花見に行くと思い立ったら、限りなく妄想を広げて、自分で勝手にあれこれ盛り上げてしまうと、一層楽しめます。
例えば、この桜はかくかくしかじかの桜であるとか、これこれの小説に描かれている場所だとか、誰それの和歌に詠まれているということを思い起こすだけで、まるで聖地巡礼のように気分が盛り上がります。桜の季節は年に1度しかないわけですから、盛り上がらないと損という気で楽しみたいです。
桜を描いた有名な小説でまず思い浮かぶのは坂口安吾の「桜の森の満開の下」です。
通りかかった旅人の身ぐるみを剥し、連れの女を自分の女房にする鈴鹿峠の山賊と、妖しく美しい残酷な女との幻想的な怪奇物語です。
イメージは山桜。人がいない中を、ただ咲き誇る桜が目に浮かびます。
冒頭の方を少し引用してみると
近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまうという話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。
坂口安吾「桜の森の満開の下」
昔、鈴鹿峠にも旅人が桜の森の花の下を通らなければならないような道になっていました。花の咲かない頃はよろしいのですが、花の季節になると、旅人はみんな森の花の下で気が変になりました。できるだけ早く花の下から逃げようと思って、青い木や枯れ木のある方へ一目散に走りだしたものです。
この後、妖しくも美しい物語が展開されていきます。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる有名な梶井基次郎の「桜の樹の下には」はどうかというと、
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
梶井基次郎「桜の樹の下には」
これは信じていいことなんだよ何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
どちらも満開の桜の妖艶さをグロテスクと狂気と美を織り交ぜて描いた小説です。
さて、花の盛りはあっという間です。
ですので、花見に行こうと決めたなら、次は、いつ行くかという問題が発生します。
早ければまだ3分咲きとか5分咲きで物足りないし、暖かい日が続くと、人の気も知らずに勝手に開花するし、いよいよ満開となっても真っ盛りは2日か3日くらい、そうこうするうちに、あっという間に散ってしまいます。
このタイミングの見極めが難しい。そして、どうせなら、天気がいい日に行きたい。
一番の問題はそのタイミングで時間をとれるかということです。現役時代なら休んでまで行くというのはちょっと憚られたでしょう。
でも、定年しちゃったら割り切りましょう。
花のスケジュールを優先しちゃいましょう。
まず、混んだ時には絶対に行きたくないので、土日は避ける。
おそらく、午前中の方が人は少ないと思われるので、頑張って早起きする。
最近はライトアップもやっているで、泊りがけで行けると贅沢でいいですよね。朝から晩まで楽しめます。
与謝野晶子の
清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人みなうつくしき
ではありませんが、浮き浮きしませんか。
「細雪ごっご」というのもあります。
嵯峨野から平安神宮まで、蒔岡シスターズになりきって京都を巡るのです。正に桜の聖地巡礼です。
ビジュアルを楽しむなら市川崑監督の映画版もあります。
四姉妹は、岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川裕子です。
そして桜と言えばやはり西行でしょう。
願わくば 花の下にて春死なむ その如月の望月の頃
歌の通りに死ぬなんて完璧すぎます。
西行については、辻邦生の「西行花伝」がおススメです。
流麗な絵巻のような辻邦生ワールドに浸れる作品です。
何はともあれ、年に一度しかない桜の季節。存分に楽しみましょう。