三宅香帆さんの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読みました。
発売1週間で累計発行部数が10万部を突破したそうです。
タイトルを見て、自分もそうだと共感する人が沢山いるのだと思います。
そして、まえがきの、「本が読めなかったから、会社をやめました」という言葉に思わず拍手です。
以下、勝手な感想です。
まず、「本が読めない」ということですが、
「読めない」というと「読みたいんだけど読めない」というニュアンスになります。
「読みたいと思わない」ならば、読めなくても痛くも痒くもないはずです。
次に誰が「読めない」のか。自分なのか、世の中の人がなのかということです。
この本には、明治から令和にかけての働き方と読書の位置付けの変化の有様が書かれています。
読書は、かつては「出世のための教養を得る手段」であったかも知れませんが、昨今では単なる「情報」にすぎないならば、わざわざ本を読まなくても、手っ取り早くネットで情報収集できるわけです。
限られた時間でのタイパを重視するならば「速読法」や映画の「倍速見」と同じく、読書以外の方法で、必要な情報だけを得ることは合理的です。
筆者は「ノイズ」という言葉を使っていますが、読書には「背景」だとか「歴史」だとか情報そのもの以外の「ノイズ」が含まれていて過剰だということなのでしょう。ですから、わざわざ読まない。そうとなれば、世間一般に読書人口が減っているというのは理解できます。
しかし、「本が読みたい“私”」にとっては、世の中の人が読もうと読むまいと関係ありません。つまり、世の中がどうであろうと、「私」が読みたいのです。
このように考えると、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」は、
「なぜ働いていると、私は本を読みたいのに読めなくなるのか」と変換できます。
これを更に一般化させると「なぜ働いていると、仕事と関係ないやりたいことをやれなくなるのか」となります。
話を読書に戻しましょう。なぜ読めなくなるのか。
ひとつには、「時間的」に読めなくなるということでしょうし、もうひとつには、「脳的」に読めなくなるということでしょう。
「時間的」というのは物理的に自由に使える時間が圧倒的に少なくなるという意味で、「脳的」というのは働いていると、仕事で疲れてとてもじゃないけど読書なんてできないという意味です。
流石に、今時「24時間戦えますか」的な働き方は否定されていますが、それでもフルタイムで働いていると、家事の時間や睡眠時間を考慮すると、たとえ定時に帰るとしても、自由に使える時間は精々2時間程度しかありません。
この時間を何に使うかというのは優先順位の問題です。本を読みたい人は本を読むし、TVを見たい人はTVを見るし、運動したい人は運動します。しかし、何をするのであれ、家に帰ってからというのはやっぱり疲れていますから、本当に気合を入れないと続きません。
すると、次に出てくるのは、脳が元気な時間を如何に見つけるかという問題です。
解決法として、「朝活」、「昼活」、「通勤活」といった時間の見つけ方であったり、「家事の省力化」とか「睡眠時間の短縮」という時間の捻出方法であったり、あるいは「倍速見」などのような時間の有効活用、つまり「タイパ」という話になってしまいます。
しかし、睡眠時間は減らすべきではないでしょうし、家事の手抜きも限界があるでしょう。ノウハウは多々あるのでしょうが時間管理法やテクニックの問題でもないでしょう。
上手くいったとしても、いつも時間に追われているようで余裕がなく、どこかで破綻してしまいそうです。
それならば、大元の労働時間を減らせないのかという発想になります。
本の最終章で「全身全霊」をやめませんかという提案があります。全身ではなく半身でコミットしようという提案です。
「半身」というのは、ひとつには物理的に労働時間を減らすことでしょうし、ふたつには仕事へ全身全霊で取り組まないということでしょう。
今の仕事が無茶苦茶面白かったら難しいところもあるのでしょうが、ここは一種の割り切りです。
残業はしないなど一定のルールを決めて、その中で最大のものを発揮するという割り切りです。
何故なら、仕事をする以上はキチンとやるというのが働く人の矜持でしょうから。
しかし、これは「言うは易く行うは難し」の典型です。
会社員をしているととっても難しいです。簡単に実行できません。でもどこかで区切りをつけましょう。会社はいつまでも面倒見てくれません。
筆者は3年半働いて辞めたそうです。
何らかの切っ掛けが必要なのかもしれません。
タイミングとして、目標としていた貯金ができた時とか、会社での先が見えた時とか、役職定年になった時かも知れません。
貴方が定年女子なら、そろそろ決断しましょう。何故ってやりたいことが一杯あるはずですから。
これが筆者のいう半身ということでしょう。